N.O.S草創期

1960年度の出来事

ニューオレンジスイングオーケストラが誕生した1960年代、大学の多くは、ジャズ喫茶やダンスホール、あるいはパチンコ、マージャンに入り浸っていた。ことにダンスは、毎晩どこかのキャンパスや公会堂等でパーティが開催されていて、ダンス曲を演奏するバンドは引っ張りだこだった。


(参考)当時のダンスホールの様子(1958年:本文とは関係ありません)

そんな時、法大ダンス研究会ダンス部に在籍していた、折居興二、工藤隆慶、佐藤修(以上1期生)が、ダンスの学生チャンピオンだった同会の吉野一省キャプテン等から、ダンスバンド創部の要請を受け、熊谷広治(1期バンドマスター)をはじめジャズ好きの学生を集め、1960年8月、ニューオレが結成された。

発足時のレパートリーは、ダンス用にグレンミラー、ベニーグッドマンとラテンだったが、楽譜を入手するのが困難だった為、LPレコードを何十回も廻して譜面に書き取るなど、編曲は折居(1期コンサートマスター)が担当した。

  

連日の猛訓練の結果、演奏の機会が増え、米軍のキャンプや将校クラブのクリスマスパーティにも出演するなど、スイングバンドとしての評価が高まり、ハイソ、ライトと並んでニューオレは大学のビッグ3と称された。

創部した翌年の春に、東京六大学ダンス選手権大会と全日本ダンス選手権大会の二大大会にニューオレが単独出演した。ダンス部生まれのバンドだけあって、全国のダンス関係者から“踊りやすい”と大好評で、その後は毎晩のように、ダンスパーティでの出演が続いた。

それから11年後、本格的なジャズ演奏を求めて、伊藤梅男(11期生)、森田真人(12期生)が中心となり、宮間利之とニューハードオーケストラの山木幸三郎氏に三拝九拝して、ニューオレの師と仰いだ。以来今日まで、山木先生は多くのアマチュアバンドからの指導要請を受けながらもニューオレをメインに、作曲・編曲から演奏、そして音楽への考え方、人生についてまで幅広いご指導をいただいている。