創部50周年記念パーティの開催

2010年度の出来事

創部50周年 お祝いの言葉

部長 中田和秀先生

 法政大学ニューオレンヂスウィングオーケストラ創部50周年おめでとうございます。
 現在、ニューオレは69名の現役部員を擁し例年どおり活発に活動しております。毎年参加している山野ビッグバンドジャズコンテストでは、コンスタントに良い成績を維持しています。今年度特筆すべきは、第2回全日本ジュニアジャズオーケストラフェスティバルでグランプリを獲得したことであり、来年度からの更なる飛躍が期待される吉兆といえるでしょう。ニューオレの活動においては、音楽の技術的な問題だけではなく、礼儀正しさや精神力を鍛えることおよび部の運営について自律することが重要と思います。このような点にも気をつけながら、次の50年に向かって努力を続けていきたいと思います。
 山木幸三郎先生先生には40年にわたってご指導いただき、ありがとうございます。先生のアレンジ曲を演奏出来るメンバーは大変恵まれております。引き続きよろしくご指導のほど、お願い申し上げます。OB・OGの皆様には、日頃から練習指導をいただき、また、本記念パーティにもご尽力いただきましてありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

前部長 堀上英紀先生

 今年、生誕50年を迎えたニューオレンヂスイングオーケストラは、当時活躍していた舞踏研究会のメンバーが「自分たちのバンドが欲しい」という強い願いから、一部の部員が中心となって編成されたと聞いております。その際、超一流のアレンジャーの指導を受けたい一心で、面識のなかった山木幸三郎先生先生の自宅に押しかけ、他大学の要請を振り切って、快諾を得たとのことです。
 それ以来、山木先生と多くの先輩の方々のご支援があって半世紀に亘る活動ができていることを思うと、お力添えの大きさを感ぜずにはいられません。私が顧問をしておりました当時、何とかお返しをしたいと思いながらも叶えることができませんでしたが、幸い若くパワーのあふれる中田和秀先生に顧問をお引き受け頂き、これからの躍進を楽しみにしております。願わくば、毎年8月におこなわれる山野ビッグバンドジャズコンテストで上位5本の指に入る日の来ることを祈念しております。
 伝統あるニューオレンヂスイングオーケストラの創部50周年、ほんとうにおめでとうございます!

前々部長 斎藤茂先生

ニューオレの現役の諸君は恐らく平成の生まれでしょう。私は昭和の一桁、100歳には間がありますが、50年位を振り返って見ようかなと思います。

私は昭和28年に大学を出て直ぐに法政大学第一教養部の化学の「実験助手」になりました。当時の第一教養部は川崎市木月の二高と同じ敷地にありました。昭和33年に化学研究室は川崎から本校(市ヶ谷地区)に移転しました。58年館が55年館に繋がった年に、第二58年館が出来ました。第二58年館(政文堂と三輪田の近く、今は無い)は地上3階、地下2階建てでした。その地下1階に化学研究室が、隣に生物研究室がありました。

中井先生は昭和29年に化学の担当として着任されました。それ以来、亡くなられるまで長いお付き合いでした。お互いに東京生まれ、余り喋りませんでしたが、気心は知れていたようです。中井先生は「軽音楽部」の他「バレー部」や「撞球部」の責任者もしていました。同窓会館から不要になったビリヤード台と一式を譲り受け、地下2階の化学倉庫に台をセットして「撞球部」を設立しました。その後昭和40年代の大學紛争などもあり部員は激減し、台だけが第二58年館の地下2階にとり残されました。私は、多摩移転前後から大学側(多摩学生部)との長い折衝の末、ビリヤード台を多摩学生会館に移しました。今は学生たちに利用されています。中井先生と「バレー部」の関係はよく判りませんが、何回も一部での優勝を重ねました。「軽音楽部(実はニュウオレ)」と中井先生の関わ は、何方が書かれると思いますので省きます。

中井先生が定年となり、今まで私とは無縁のことと思っていましたが、責任者は専任の教職員でなければならないので、二代目をお引き受けすることになりました。はっきりとは覚えていませんが、責任者としてそれぞれ二十年ほどニュウオレとのお付き合いでした。

50年の間には、実にいろいろなことがあったと思います。特に大學紛争の激しかった頃には教職員さへ構内に入れない時期がありました。誕生から中期の頃と現状とでは、練習場所や楽器の保管などの苦労も随分と差のあることでしょう。

ところで、印象に残っていることの一つ二つ。北海道の網走にいる先輩(プロ)が私のところに突然やってきて、ニュウオレを呼ぶと言うのです。確か、条件は二度とも、航空運賃・宿泊代は先方(北見、網走地区のOB)持ち、ニュウオレは求めに応じて演奏することだったような気がします。初めてYS-11に乗って喜んだり驚いたりしたメンバーもいたようです。それから、河口湖の夏合宿に参加したことも私の思い出に残っています。

毎年の主な行事として勉学の傍ら、新歓、ビッグバンドコンテストに向けての合宿と発表、リサイタルに向けての合宿と発表、その他ありますが、半世紀にわたり恙無く過ごすことが出来ました。このことは山木さんという良き指導者を得、ニュウオレのメンバーが心を合わせて努力した結果です。

三代目の堀上先生、有難うございました。四代目の中田先生、ご苦労様です。

ニュウオレの先輩方、見守り有難うございます。

最後に、今回の50周年を機に、ニュウオレの更なる発展を願っています。

アレンジャー 山木幸三郎先生

 50年、この間たどった変遷を思うと50年という時間が持つ意味の重さをあらためて感じます。その月日をジャズビッグバンドとして存続してきたことだけでも大変なことであるのに、ニューオレンヂスイングオーケストラは次々と新しい境地を開き、まもなくニューオレンヂバンドが足かけ半世紀におよぶことになる...
 そして今日ふり返ってみれば去来した、たくさんの個性あるOB・OG達とのバンドの思いは、もうつきることがありません。
 そして今在籍する若い、素晴らしいプレーヤー達と共に、意欲的な活動を続けられることに深く感謝するばかりです。50周年おめでとうございます。

OB会長 折居興二さん

 1960年、ジャズ好きの学生が集結した。当時は、「ダンス」のニーズが高く、グレンミラー、ベニーグッドマン、そしてラテンからスタートした。楽譜はLPレコードを何十回も廻して聴き取った。
 メジャーデビューは、法政ダンス研究会の力を得て、その年の秋、東京六大学舞踏選手権大会と全日本大学舞踏選手権大会での単独出演だった。全国からのダンス関係、音楽関係に大好評を得て、一躍スターダムに上った。
 71年からは山木幸三郎先生先生のアレンジとご指導をいただき、より高度に、より広範なジャズ演奏活動となって、現在に至っている。
 発足時は、岩戸景気に沸き、順風満帆だったが、71年のドルショックをはじめ、オイルショック、バブル崩壊、就職氷河期等々、幾多の苦難がクラブ活動に立ちはだかった中で、50年も受け継いでくれた後輩諸氏には頭が下がる。この先も、わがニューオレは100年、200年と壮大な未来が描けることだろう。
 今日までご指導頂いた、故中井教授、斎藤教授、堀上教授、中田教授、そして山木先生に深く感謝申し上げます。

バンドマスター 平林友也

 本日はお忙しい中50周年記念式典にお集まり頂きありがとうございます。
 ニューオレンヂスイングオーケストラがダンスバンドとして演奏を始めてから50年、半世紀が経ちました。このように長きに渡り、ニューオレが活動し続けて来られたのも、歴代の先輩方や関係者の皆様の努力があってこそのものだと思います。長い歴史の中では、メンバー不足、練習場所の確保等、活動を続けていく上で壁にぶつかることが何度もあったことでしょう。それでも諦めず、一致団結して困難を乗り越えてきたから今のニューオレがあるのだと思います。この事を決して忘れず、これからも一日いちにちを大切に過ごし、次の世代へ繋いでいこうと思います。
 OB・OGの皆様には今後とも現役の活動を暖かく、時には厳しく見守って頂ければと思います。ご支援・ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 最後になりましたが、いつも熱心にご指導ご協力頂いております山木幸三郎先生先生をはじめ、中田先生、堀上先生、斎藤先生、OB・OGの皆様に心から感謝致します。

プログラム

  1. 開会 ご挨拶
  2. 現役生による演奏
  3. お祝いメッセージ
  4. 後援会のご案内
  5. 記念撮影
  6. 閉会